近鉄特急の復活は1947(昭和22)年だ。大阪線の上本町~伊勢中川間と、名古屋線の近鉄名古屋~伊勢中川間で特急が復活した。線路の規格が異なるから直通はできないけれど、伊勢中川乗り換えの名阪特急ルートが復活した。ただし、被災車両のうち良好な車両を修理して使うという状態で、所要時間は4時間以上かかった。
一方、国鉄の関西本線は優等列車を走らせる余裕はなく、普通列車で5時間以上かかった。東海道本線の急行は4時間前後だ。しかも近鉄特急は指定席を採用し「座れる列車」をアピールして人気となった。
(全2回の2回目/前編を読む)
加速するスピードアップ合戦と人気
所要時間の回復は早かった。1949年に上本町~名古屋間は3時間25分に。その翌年、1950年には3時間5分となり、戦中の最速列車と同程度に回復。特急の運行本数も年々増えて、1955年には大阪線・名古屋線とも7往復となった。
国鉄はどうだったか。1949年に特急「へいわ」が誕生し、東海道本線の特急が次々に再開する。しかし、東海道本線の特急は東名間、東京~大阪~神戸間の列車という役割だった。短距離で利用するには割高な運賃設定でもあった。
国鉄の名阪間スピードアップは1952年に誕生した準急列車の役目だった。所要時間は3時間35分。近鉄より30分遅い。国鉄の反撃は1956年だ。米原~京都間が電化され、所要時間は3時間16分となって近鉄との差が縮まる。こうなると、乗り換えなしの国鉄を選ぶ人も増えてきた。
追いつかれた近鉄にとって、1956年は名阪特急の躍進の年となった。大阪線の上本町~布施間を複々線化して大阪線と奈良線を分離し、大阪線のスピードアップとなった。名古屋線側も四日市駅を国鉄駅から現在の近鉄四日市に移した。これは国鉄四日市駅に接続するためにあった半径100メートルの急カーブを解消するためだった。両線はそれぞれスピードアップを実現し、名阪間は2時間35分に短縮された。
国鉄も追撃する。1957年に準急を電化し、1日3往復。所要時間は2時間45分と近鉄に及ばなかったけれども、その差は10分。乗り換えなしの国鉄準急に人気が移った。
近鉄は速度以外の要素「伊勢中川駅の乗り換えが面倒」で敗北した。こうなると大阪線と名古屋線を直通運転し、乗り換えを解消するしかない。直通運転のために、名古屋線の軌間を大阪線と同じ標準軌に改造すると決めた。しかし、準備も工事も時間がかかる。そこで1957年は改軌準備工事とサービスアップの年となった。特急に冷房装置、続いてシートラジオを搭載。大阪線の特急には公衆電話が設置された。
「スピードで勝てなくても、価格で勝負できる」近鉄vs国鉄、“名阪特急”競争の切り札 - 文春オンライン
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